第1回: 初めての「て・あーて」実践
故郷に帰る
高校時代までを過ごした土地を後にしたのは約40年前のこと。保育園から高校生まで,複数の子どもたちがいた集落は今や限界集落と化しました。数か月毎に一人暮らしの母の様子を見に帰る生活も9年余り続いていました。母の一人暮らしは,周りの皆さんのお世話で成り立っていましたが,その皆さんも75歳以上となっていました。そろそろ限界だと感じ,1月にこの故郷に戻りました。
昨年の新築祝いには,集落のほとんどの皆さんが駆けつけ,私が帰ってくることを祝福してくださいました。「看護師さんが帰ってきてくれる」「安心だ~」と,口々にされて。「看護師」という職業への信頼感の大きさを肌で感じ,自分を育ててくれた,また母をお世話してくださった集落の皆さんの役に立てればいいなと思いました。
看護師として地域の人の相談に乗る
その機会は早々におとずれました。引っ越し荷物がまだ整理できていない時期でした。近くの千代子おばちゃんが,「調子が悪いから看護師さんに診てもらおうと思って」と,緩やかですが登り坂を,少し息せきながら歩いてきました。足取りはしっかりしていましたが,辛そうな表情でした。母から,おばちゃんが昨年ペースメーカーを入れたと聞いていましたので,心臓に問題でも生じたのかと思いました。
皆さんとお茶のみをできるようにと作ってもらったテラスに早速座ってもらい,脈を診ることから始めました。肩が張る,いろいろなことを悪い方に考えて夜も眠れない,足もだるい等など口にされました。背中を摩りながら,話に相槌を打ったり,同調したり,あまり悪い方だけに考えないでなど,しばらくとりとめのない話をしました。背中を摩り始めて10分くらいたったでしょうか。おばちゃんが「楽になった~」と笑顔で言われたのです。おばちゃんの一言に,面目が保てたと正直安堵しました。これが暮らしの中で実践できる「て・あーて」ではないかと感じました。
そして,先月のこと。母の面倒を一番よくみてくださる富士子おばちゃんが,「このところ鼻血がよく出る」と訪ねてこられました。訊くと短い時間で止まるようなので,大きな問題はないと思いましたが,不安そうでした。念のために,病院に行ってみようかと思うと口にされました。しかし,今まで耳鼻科の受診はしたことがないと言います。そこで,インターネットで地域の耳鼻科クリニックを探し,診察時間,場所を伝えました。
翌日,受診することになり,私は仕事の都合で行けませんでしたが,母が一緒にいくことになりました。母は杖歩行で,おばちゃんの運転する車に乗せてもらうと返ってお世話をしてもらう立場になるのに,です。母は,一人で行くよりも心強いのではないかと言うのです。私の代わりに同行しなくてはと思ったのかもしれません。
さて,受診後は,さっそく報告がありました。鼻を噛むときに注意すれば,治療の必要はないこと。それよりも,母たちは,診察の待ち時間が短く,診察もスムーズで,建物が新しくて,綺麗でと,診察以外のほうが盛りだくさんでした。とにかく富士子おばちゃんの不安は消えたようで,それ以降は,鼻血が出たという話は聞いていません。
地域で暮らしながら,看護師としてできることを見つめていきたいと思っています。(2018年執筆)
みやんじょう・えりこ
看護師
1960年鹿児島県生まれ。
1983年名古屋市立中央看護専門学校(昼間定時制4年間)卒業
2010年千葉大学大学院看護学研究科 看護システム管理学専攻修了
看護学校卒業後,医療法人財団健和会に入職し2018年1月退職。その間,法人内の柳原病院,みさと健和病院で,臨床指導者,病棟師長を経て,健和会臨床看護学研究所で勤務(5年間)。柳原リハビリテーション病院開院(2005年)と同時に異動し,教育,医療安全等の担当をした。その後,総看護師長となり6年従事。この間,千葉大学大学院で専門職連携を学ぶ。2010年9月から副所長として2度目の健和会臨床看護学研究所勤務となった。翌年,東日本大震災発生後,日本て・あーて推進協会の事務局として震災支援にかかわる。現在は帰郷し,地域の中核病院で教育マネージャーとして勤務する傍ら,看護学校で非常勤講師として教鞭をとる。一方,ライフワークであるNPO法人化学兵器被害者支援 日中未来平和基金の理事(唯一の看護師)として中国の被害者支援に取り組んでいる。