第7回: コンサートに行く
昼過ぎ,千代子おばちゃんからの電話。畑(敷地内)にいる母に子機を渡すと,大きな声で「え~っ,ほんのこっな(本当?)」と。訊くと今,テレビでサブちゃん(北島三郎)をやってると教える電話だったようです。
母は演歌が大好きで,それを知っているおばちゃんは,時々電話で教えてくれるようなのです。母は,電話を切らないうちに歩き始めました。程なく,そこら中にサブちゃんの大きな歌声が響き渡りました。隣接した家がないということは,このような時には好都合です。
母は,特にひばりちゃん(美空ひばり)がお気に入りです。母が60代の頃,京都嵐山に連れて行ったことがありました。渡月橋や天龍寺,竹林など散策したのですが,母が最も喜んだのは「美空ひばり記念館」でした。その後もひばりちゃんの番組があると,「記念館はよかったね~」と感慨深げに言います。ひばりちゃんの歌を聴き,数多くの映画を観てきた母。故郷を離れて暮らしていた時の唯一の楽しみだったようです。輝かしい時代ばかりでなく不遇な時期もあったひばりちゃんは,自分の人生にも重ね合わせるところがあったのではないでしょうか。そんなひばりちゃんが暮らした部屋(再現)や着ていた衣装は過ぎ去った時間とともに心に深く刻まれたのかもしれません。
一方,おばちゃんは演歌ばかりでなく若い世代の歌も好きで,紅白歌合戦は毎年外したことはないのだそうです。そんなおばちゃんが「北山たけし」のコンサートに誘ってくれました。コンサートや催し物を見る機会が少ない限界集落に住む高齢者にとって,貴重な機会です。母も二つ返事でチケットの購入をお願いしたようです。
コンサートの日が近づくにつれ,「どうしようか,行くのをやめようか」と言い始めました。シルバーカーが手放せない,短い距離しか歩けないからと,駐車場から会場までどうするか,座席までシルバーカーで行けるか,通路が狭くないかと具体的な不安を口にするようになりました。「高齢者も多いんだから,大丈夫だよ」という言葉では安心しなかったようです。
後日,富士子おばちゃんから聞いた話によると,母はトイレが心配で迷っていた,でも千代子おばちゃんが,その時はしょって(負ぶって)でも行くからと言ってくれた,それで行く気になったようだと。そのような経緯があったとはと驚きましたが,トイレに関しては思い当たる節があります。
母が夜間トイレに間に合わないときがあると言うので,以前から夜だけでも尿取りパットを使ったらと渡しましたが,頑として使用しないのです。ですから,トイレが心配と言うと尿取りパットを勧められると思い,言えなかったのではと。そこへ,千代子おばちゃんの豪快な言葉は,母にとって心強かったことでしょう。
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さて,コンサートがあった日。夕方帰るとテーブルでペンライト(コンサート用)を振るニコニコ顔の母がいました。まさに,テレビで見かける客席でペンライトを左右に振る観客の姿です。ペンライトは会場で買ったと,「キラキラしてきれいだよ」と説明しながら左右上下に振って見せながら,矢継ぎ早に,「よかったぁ~,上手だったぁ~」と声を弾ませ話します。
そして,「大阪から来ている派手なおばちゃんたちもいた,追っかけっていうのか,凄いなぁ」と。わざわざ大阪から鹿児島までコンサートを見に来る都会の女性たち,母たちには信じられない光景だったのではないでしょうか。
日ごろは味わえない体験をした母,久しぶりに見るわくわくした姿でした。千代子おばちゃんのおかげです。次の休みに一緒に食事に招待することで感謝の気持ちを表しました。
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感動を共にしたペンライト,3日程はキラキラ輝きを放っていました。が,その後,棒状の置物のようになり,いつしか母の視界からは遠のいたようです。
*登場人物は仮名です。
みやんじょう・えりこ
看護師
1960年鹿児島県生まれ。
1983年名古屋市立中央看護専門学校(昼間定時制4年間)卒業
2010年千葉大学大学院看護学研究科 看護システム管理学専攻修了
看護学校卒業後,医療法人財団健和会に入職し2018年1月退職。その間,法人内の柳原病院,みさと健和病院で,臨床指導者,病棟師長を経て,健和会臨床看護学研究所で勤務(5年間)。柳原リハビリテーション病院開院(2005年)と同時に異動し,教育,医療安全等の担当をした。その後,総看護師長となり6年従事。この間,千葉大学大学院で専門職連携を学ぶ。2010年9月から副所長として2度目の健和会臨床看護学研究所勤務となった。翌年,東日本大震災発生後,日本て・あーて推進協会の事務局として震災支援にかかわる。現在は帰郷し,地域の中核病院で教育マネージャーとして勤務する傍ら,看護学校で非常勤講師として教鞭をとる。一方,ライフワークであるNPO法人化学兵器被害者支援 日中未来平和基金の理事(唯一の看護師)として中国の被害者支援に取り組んでいる。