第3回: さと子おばちゃんの入院
「今日はサロンに行く日」と,朝からそわそわしている母。月に1回,小学校近くの公民館で開催される高齢者の集いです。
サロンから帰ると母は,その日の内容を途切れ途切れに報告してくれます。あるときは「今日は,こんな体操を習った」と,椅子の横に片手片足で立ち,脚を前後に振って見せました。数回でふらつくのですが,また,逆の手足でして見せます。「先生が,毎日続けるといいんだって言ってた」と母。
「じゃあ,毎日やったらいいんじゃない」と言いかけましたが,やめました。わかっているけど毎日はできない,と,できない理由を並べる母,それを何とか仕向けようとする娘,そういうことで何度となく繰り返された言い合い。うっかり口にはできません。「へぇ,そう」とだけ返し,私自身が母との衝突を避ける術を確認するときでもあります。また,同級生のお母さんと会ったとか,サロンから流れて我が家に招き昼食会になるときもあり,違う刺激をもらえる場になっているのです。
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ところが,その日は違っていました。いつも車に乗せて行ってくれるさと子おばちゃんが足の骨が折れて入院していたというのです。
2日前に会ったときは元気だったのに,と母は気落ちしています。集落では入院した人がいると,必ず1回はお見舞いに行くのが常です。聞けばお見舞金も一律決まっているとのことです。母にとっては一番のお友だち,早速お見舞いに行くことになりました。
40分ほど車を走らせた小高い丘のところに病院はあります。
過去に母も2度入院したことがあるのですが,1人で行くには億劫になる道のりです。ましてや高齢者ではなおのこと。母,富士子おばちゃん,もう1人のおばちゃんを乗せて総勢4人で,さと子おばちゃんのもとへ出発。
母は,長い廊下をシルバーカーを押して,エレベーターの前にたどり着きました。エレベーターを滅多に利用する機会がない高齢者3人,「(エレベーターに)に慣れないから(私と)一緒でよかった」と。しばし,エレベーターガールを務めたのでした。
膝蓋骨にひびが入ったようで,おばちゃんの右足はアイスノンが当てられ,その上から装具で固定されていましたが,痛々しいほど腫れていました。痛み止めを飲んで痛みはだいぶ軽くなってきたという言葉に,みんなで安堵しました。ケガの顛末を聴いた高齢者3人は,自分たちも転ばないように気をつけなきゃとお互いの顔を見ながらうなずき合っていました。私は「日が長い」というおばちゃんに,筋肉が落ちないようと手足の運動を教えました。
そうこうするうちに,千代子おばちゃんと文子おばちゃんがお見舞いにきました。入院した人がいたら早々にお見舞いに行くという慣例のとおりです。そこで,入れ替わるように私たちは帰りました。この後,同じように2人もケガの顛末を聴き,自分たちも気をつけようという話になるのです。お見舞いの場は,集落住民の情報共有の場であり,当事者が講師となった健康教室のようです。
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さて,心を許し話せる相手がいなくなった母とおばちゃん,80歳を超えた2人にとっては寂しいことだろうと思いました。
この環境の変化が認知症の発症要因になりかねません。10日後に2回目のお見舞いに連れて行きました。2人は再会を喜び,ひとしきり日常の出来事を語り合っていました。
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先日,ほぼ2か月の入院生活を終え,さと子おばちゃんは無事に退院されました。おばちゃんが入院前とほぼ同じ姿で帰ってこられたことは,母にとって心の安定につながることだったように思います。おばちゃんが車を運転できるようになるのにはもう少し時間がかかるようです。母は,マイカー(電動カート)に乗っていそいそとおばちゃんに会いに行く日々です。
*登場人物は仮名です。(2018年執筆)
みやんじょう・えりこ
看護師
1960年鹿児島県生まれ。
1983年名古屋市立中央看護専門学校(昼間定時制4年間)卒業
2010年千葉大学大学院看護学研究科 看護システム管理学専攻修了
看護学校卒業後,医療法人財団健和会に入職し2018年1月退職。その間,法人内の柳原病院,みさと健和病院で,臨床指導者,病棟師長を経て,健和会臨床看護学研究所で勤務(5年間)。柳原リハビリテーション病院開院(2005年)と同時に異動し,教育,医療安全等の担当をした。その後,総看護師長となり6年従事。この間,千葉大学大学院で専門職連携を学ぶ。2010年9月から副所長として2度目の健和会臨床看護学研究所勤務となった。翌年,東日本大震災発生後,日本て・あーて推進協会の事務局として震災支援にかかわる。現在は帰郷し,地域の中核病院で教育マネージャーとして勤務する傍ら,看護学校で非常勤講師として教鞭をとる。一方,ライフワークであるNPO法人化学兵器被害者支援 日中未来平和基金の理事(唯一の看護師)として中国の被害者支援に取り組んでいる。