看護の歴史教育の必要性に思うところ

 ナイチンゲールの看護思想の中心概念には,人間・環境・健康・看護があります。歴史を見てみますと,環境汚染や薬害などで命や健康を奪われ,その人の本来保証されるべき生活が破壊され,人としての尊厳が奪われた人々の存在に気づかされます。人生観や健康観,病気観,価値観などは,生きてきた時代を背景として社会の影響を受けて築かれます。そう考えると,その人の生きてきた社会・環境を知らずに,その人を理解し,寄り添うことはできないと思います。

忘れ去ってはいけないイタイイタイ病

 2022(令和4)年8月31日,富山県在住の91歳の女性がイタイイタイ病と認定されました。イタイイタイ病は四大公害病のひとつです。第二次世界大戦が終わり,日本の高度成長期,産業の発展に力が注がれ,企業の発展が最優先され,人々の健康に対する関心が後回しにされた時代,年代としては1950年代から1960年代にかけて,日本は未曾有の環境汚染とそれに伴う公害病を経験しました。

 四大公害病とは,熊本県の水俣湾で発生したメチル水銀汚染による水俣病,同じくメチル水銀汚染による新潟県の阿賀野川流域での新潟水俣病,三重県四日市市で発生した主に硫黄酸化物による大気汚染が原因の四日市ぜん息,富山県神通川流域で発生したカドミウム汚染によるイタイイタイ病です。

 イタイイタイ病は,カドミウムを含む鉱石が神通川へと流れ出た水質汚染で,人々の住む家の横を流れる生活用水が汚染されました。同病は,骨軟化症,腎機能障害で骨折をくり返すようになり,全身を痛みが襲うため,「イタイ,イタイ」と苦しみ,食事も取れずに衰弱しきって死を迎えるという病であり,発症当時は特定の地域に発生している奇病とされました。

 その病を人々が知るきっかけとなったのは,家庭訪問をした保健師の調査報告でした。イタイイタイ病は国が認定するまで発症から約50年を要したことで,どれだけ多くの方がこの病で亡くなったのかは,わかっていません。今回認定された方は201人目です。今生存されている方は2名です。過去から今にも続くこの公害病を,忘れ去ってはいけないと思いますし,この病気に苦しみ,闘った人々のことを語り継ぐ必要があると思います。

今に続く薬害被害と食品公害問題

 他にも,食品公害事件や薬害被害にあわれた方々の存在も忘れてはいけません。皆さんは,近年,サリドマイド薬が,多発性骨髄腫などの臨床治療薬として復活し,世界で未だにサリドマイド児が誕生していることをご存知でしょうか。

 数年前になりますが,筆者が都内大学病院で血液内科病棟の師長をしていた時に,サリドマイド薬が治療薬として処方され,薬剤師の管理のもと,鍵のかかる金庫で管理されていて驚きました。その時,臨床薬として復活していることを知りました。「悪魔の薬の復活」と云われています。

 日本では1960年代,大衆薬に含まれたサリドマイド薬を妊娠中に服用した妊婦から,手足が欠損した子どもが誕生し,「サリドマイド薬禍」は,社会に大きな衝撃を与えました。サリドマイド胞芽症者の方は上下肢低形成によるリーチ障害,把持障害,あるいは聴覚障害によるコミュニケーション障害を持ちながら,残存機能を使って学校生活,社会生活を送ってきました。

 学生に「悪魔の薬」といわれたサリドマイド薬の薬害を教えなければ,学生は,多発性骨髄腫やベーチェット病,全身性エリテマトーデス(SLE)などの治療薬として覚えてしまう可能性があります。1988(昭和63)年のWHO使用ガイドラインでは,妊娠可能な女性へのサリドマイド薬の使用は禁忌となっており,女性に対する医療差別が存在するという倫理の問題も包含しています。

 食品公害問題では,カネミ油症事件は今も孫の代まで続いており,認定されずに苦しんでいる被害者がいることをご存知でしょうか。カネミ油症事件は,発生から33年後の2001(平成13)年12月11日,カネミ油症の主原因がダイオキシン類であることを坂口力厚生労働大臣が認めます。カネミ油症事件は,1968(昭和43)年3月中旬,西日本で身体に大きな吹き出物や手足の痛みやしびれを訴える人が続出したことに始まります。しかし病院では奇病とし,特に内臓疾患に関する訴えには理解を示しませんでした。

 九州大学附属病院皮膚科の医師が,米ぬか油を食べたことが共通であると判断,原因は「ライスオイル」であると診断します。しかしこの医師は,食品衛生法の基づく保健所への届出をせず,届け出たのは50日後でした。外来看護師らは患者に「ライスオイル」を食べてはいけないと指導し,患者らの知るところとなりました。

 2021(令和3)年3月現在カネミ油症認定患者2353人,うち子ども世代は約50人とされています。事件の発覚から50年以上経ても,油を食べていない患者の子や孫ら若い世代も被害を訴え,問題は現在も進行形です。調査する民間医師は,永久歯の欠損など先天異常の例から「遺伝への影響」を疑っており,国際会議でも発表された事例を中心に,「次世代被害」が報告されています。PCB(ポリ塩化ビフェニル)やダイオキシン類は,胎盤や母乳を通じて母から子に影響するとの研究結果があります。しかし,診断基準に達しない子や孫は,患者認定されないという現状があります。看護職である私たちに,できることはないのでしょうか。

歴史に向き合う講義の構築を

 新カリキュラムの実施にあたり,文部科学省では,医学系の学部において,薬害防止に関する教育がなされることを推奨し,薬害被害にあわれた方の意見,体験談を直接聞く機会を設け,適切な医療倫理・人権学習などの授業や,複数回にわたる薬害被害者の声を聴き,再発防止について議論する授業を積極的に実施することを希望しています。しかし,看護系大学で薬害被害の声を聴く授業を行なっているのは,2020年度は文部科学省の調査の結果,低い状況にあるとの報告がなされました。

 過去に起こった出来事を,歴史の流れの中で辿り,現在の医療にどのように繋がっているのかを知らなくては,臨床で正しい情報を提供できません。過去に起こった出来事も,時代が変われば新しい資料の出現や社会の状況や価値観の変化によって,歴史的解釈,評価は変わります。

 黒沢は歴史に向きあうことの必要性を,以下のように述べています1)。

「何らかの歴史のリアリティさを感じることのできる機会がなければ,つまり受け取る側の心の琴線に触れる何ものか,感情や感性に訴えるなにがしかのものがなければ,過去の出来事に若者世代(広くは歴史に関心をもたない人々)の関心が向くことはないであろう。知的な好奇心も生まれにくいであろう。無知や無関心を知識と関心に変えることはできないであろう。」

黒沢文貴:歴史に向きあう―未来につなぐ近現代の歴史,東京大学出版会,p.257,2020.

 過去の出来事は,看護の基盤となる基本的人権の理解と擁護を考える機会を与えてくれます。このように考えると私たち教員は,いかにして過去の出来事に関心を持てるようにその機会をつくるのか,きっかけになるような媒体の提供や講義の構築を,どのように行なうのかが問われると思います。まずは,看護教員が歴史を知ることの意味を理解し,歴史に向きあい,そして未来に何を繋ぐのかを考え,講義を行なうことが必要ではないかと思います。

 歴史に関心を持ち,知ることで,その人のつらさ,くやしさ,想いに気づくことができます。今,看護を学んでいる学生は平成生まれ,昭和の時代も過去となりました。しかし,だからこそ超高齢社会を支える看護を担うことになる看護学生らは,歴史に関心を持ち,日本がどのようなに社会の発展を遂げてきたのかを知ってもらいたいと思います。(2022年執筆)

〔引用・参考文献〕
1)黒沢文貴:歴史に向きあう―未来につなぐ近現代の歴史,東京大学出版会,p.257,2020.
2)栢森良二:サリドマイド―復活した「悪魔の薬」,PHPエディターズ・グループ,2021.
3)向井嘉之:イタイイタイ病と戦争―戦後七五年忘れてはならないこと,能登印刷出版部,2020.
4)川名英之:検証・カネミ油症事件,緑風出版,2005.