特別公開: 看護の証

再び臨床の現場へ

 1999年4月,私は4年ぶりに看護部長として臨床にもどった。その年の1月「患者とり違え事故」が発生し,2月に「消毒剤の誤注入事故」が起きた。臨床現場ではリスクマネジメントが一番の課題となり,「カラーシリンジ導入」「患者識別法の検討」など,さまざまな取り組みがはじまっていた。しばらく間があったが,私自身が患者および家族が急激に変化した,と感じたのは2000年に入るころからだった。あるとき,婦長が相談にきた。退院した患者家族から「手術をして無事終わったが,その際,医師から術前に合併症についての説明がなかった。こんなことでいいのか」と書かれた手紙をもらったがどうしましょう,というものだった。

 術前の説明内容は「合併症について説明されるはず」という知識をしっかりもった患者・家族像がはっきり見えた。2000年を過ぎて,一気に「リスクマネジメント」の波が押し寄せ,看護部長の緊急対応事項の大部分を「リスクマネジメント」が占めるようになった。

 まさしく「変化の時代」である。少し前まで看護部長は規模の拡張にエネルギーを費やした。今,逆にいかに効果的に縮小するか,頭を痛めている。当院も来年度中に病棟の居室拡大の工事をし,ベッド数を減少し,病棟再編成の検討が佳境に入っている。看護師をどのように配置するか,削減と質の確保とのせめぎあいである。

教育も臨床も,看護の基本は「患者さんとのかかわり」から

 臨床から教育へ,そして再び臨床の現場にもどった私がこだわっているのは「帰納的アプローチ」である。帰納的アプローチの核となるものは「患者さんとのかかわり」である。そのかかわりの質を高めていくために,私は今,看護部長として何をなすべきか。その答は,教育の場にいたときも臨床にもどった今も変わらない「患者さんからのスタート」である。患者さんの直接ケアにあたる師長を含めたスタッフがより良質なケアの提供に集中できる環境を創る。その結果,「患者さんの変化」という証しと,看護師たちのなかに残る「手ごたえ」を手に入れることである。

 大学病院の年間退職者数は100人を超える。退職していく人のなかに「手ごたえ」があったとしたら,その手ごたえを自分のキャリアとして他で活用してもらえばよい。いつのころからか,自分のなかで腹をくくった。退職するスタッフに最後に伝える言葉は「看護師は社会資源だから,きっとまた働いてね」に決めている。

椿の花を育てる「想い」

 3月末,千葉の鴨川へ椿の花を見にいった。「しばらくでした。もうどのくらいになるでしょうか」と,尋ねる私にその方は「妻がなくなって5年になります」「もう5年も過ぎたのでしょうか」そんな言葉を交わしながら軽トラックに乗って山へ向かった。到着してまず奥様のお墓を見せてもらった。このお墓と,椿の花を見たくて鴨川まで私はいった。

 お墓は富士山のような台形をしていた。「想」と彫られた言葉が目に飛び込んできた。台形のその横側には「想いを形にこれを造る 平成九年九月」と椿の花とともに刻まれていた。反対側の面には「我楽苦多椿苑讃久楽椿苑」と,さらに「椿との共生の生活を夢みて」とあった。

 それから2つの山に咲く2,000本以上の椿の花を見にいった。「これは日本の唐津です」「これは外国生まれのジョイフルリリー」,品種の違いを次々と説明され、山の椿を見て歩いた。

 5年前,私は看護短大の教員をしていた。3年生の卒業研究は,緩和ケア病棟を利用され,肉親を看取られた遺族の方から「どのような困難があったか」をインタビューする研究計画だった。62歳というその方は「自宅での介護は大変だった」と入院での闘病と自宅における介護の違いを詳細に話してくれた。その場に「妻○○の日記」という闘病日記を持参されていた。何枚目か開いたところに壷の絵が書かれていた。「これは何ですか」と尋ねると「これは妻の骨壷です」「いちばんいい骨壷を探しまわって,やっとみつけた。妻に“おまえはこれに入れるぞ,いいか”」と話したという。私も学生もびっくりした。妻が亡くなって半年たったときのインタビューだった。「今は横浜の息子の家にいるが,近いうちに鴨川の自宅にもどってひとりで暮らす。息子は一緒に暮らそうというが,山もあるし,椿を育てながら暮らそうと思う」「そこに妻の記念碑を自分で建てようと思っている」,インタビューが終わって学生たちと「すごいね。一度その記念碑を見にいきたいね」と話した。

 戦場のような毎日の現場をふと忘れた一日だった。

看護の証を社会に伝えよう!

 21世紀の看護管理の鍵を握るのは,トップリーダーとしての看護部長と,実戦部隊で指揮をとる師長たちである。変化に耐えうる組織,いや変化を起こし続ける組織になるために悠長な時間はない。

 「この写真を見てください」と内科病棟の師長が部長室に入ってきた。今年は,いつになく早く桜が咲いて,新入職者がくる4月を待たずに散ってしまった。写真は,見事に咲いた院内の桜並木の写真だった。そこには呼吸器をつけた患者さん,その家族,そして美しい笑顔の看護師たちの顔が桜と競って映っていた。「病棟で働いているときよりいい顔しているんですよ。患者さんもスタッフも」。

 写真を見た一週間後,私はその写真をカラーコピーして病棟に届けた。「この写真は,貴方たちの看護の証よ」と師長に伝えた。

 病院経営もますます厳しい時代となる。「在院日数短縮」「稼働率の向上」師長たちに話すこともこの手の内容が多い毎日である。でも私は師長たちに「自分の部署に入院してみえる目の前のひとりの方を喜ばして!」「そして,喜ばすことのできた証拠を私に見せてよ」と伝えている。そして,次なる夢はその証拠を社会の人びとへ,どのように伝えるか,今案を練っている。(2002年執筆)

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 本稿は2002年に執筆されました。執筆者である陣田泰子さんが今年4月に最新刊『看護の証を紡ぐ―「私の看護」を語り描く世界』をまとめられた今,20年前に発表された本稿に示されたメッセージをあらためてお読みいただきたく,陣田さんのご諒解を得て掲載しました。ここに示されたメッセージがその後,さまざまな実践のなかでどのように具体化されたかをとらえる一助として,また,本稿が今日の看護現場の課題をどのように照らし出すか,大江健三郎さんが大切にされた「リ・リード」に通じる試みとしてお読みください。ご意見・ご感想お待ちしています。(編集室)

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